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こんにちは。あまちゃん先生です。
”慶應義塾大学看護医療学部(小論文)|2017年の解説と解き方”についてお伝えします。
①ざっくり言うとこんな問題です。
坂本多加雄著『新しい福沢諭吉』からの抜粋による慶應義塾創設者 福沢諭吉に関する問題。
「多事多論」にいて本文をもとに200字以内で説明する問題。
そして
福沢諭吉がなぜ「惑溺(わくでき)」を批判したのか、本文をもとに500字以内で論じる問題です。
・課題文の読解力・論点整理力
・課題文に対しての背景知識・発想力が必須となります。
(福沢諭吉に関する知識があると読み解きやすくなります。)
あまちゃん先生。
②設問1の解説
《ざっくり言うとこういう問題》
課題文の内容より、
多事多論について200字以内で説明するもの。
まずは模範解答です。
《問題の解き方》
①お題に対する答えを課題文の中から拾い出す。
②拾い出した答えを指定された文字数に合わせて整理する。
この2点を守るだけでクリアです。
では具体的にどう解いていくかというと、
「異端妄説」について述べられている箇所より、多事多論について書かれているものを拾い出すと
・福沢は、そうした心構えが共有された状態を「自由の気風」と呼び、そうした気風のなかから、様々な「異端妄説」が出現して、互いに競い合う有様を「多事多論」という言葉で呼びました。
と書かれています。
あとは国語の現代文を解くときと同じように、
・そうした心構えの“そうした”(指示語)が何を示しているか?
(=世間一般の人々の間で、こうした「異端妄説」を進んで唱道することをよしとするような心構え)
この指示語の内容を書き足して、
(このままだと指定の200字には足りない文字数となりますので)
「多事多論」についての説明箇所
・そうした「間違い」そのものが、知識相互の「交換」から生じる「多事多論」の過程のなかで、試行錯誤的に社会全体の知識のあり方の改善に寄与していく。
ここのそうした「間違い」の“そうした”(指示語)が示しているもの
(=個々人の「智恵」はまことに「微弱」であり、そこからしばしば「間違い」が生じる)
この指示語の内容を書き足して、文章を整理すれば200字以内の指定の良い答案が出来ます。
あまちゃん先生。
③設問2の解説
《ざっくり言うとこういう問題》
福沢諭吉がなぜ「惑溺(わくでき)」を批判したのか、本文をもとに500字以内で論じるもの。
”本文をもとに”というのが条件の問題です。
本文では「惑溺」をどう述べているかを整理して解きましょう。
まずは模範解答です。
「惑溺」とは文明を特徴づける「自由の気風」の対極にある精神的態度のことであり、旧来の日本の考えだけでなく西洋の考えにおいても一定の見方や考え方にのみ位存、拘束されて「精神の独立」を失っている状態である。
これは現代においてもあてはまることであり、「惑溺」に対して違和感を持たないままの社会には進化はない。それは昨今の日本の大企業の大幅な業績悪化から言える。例えばかつては白物家電の売上で誇っていた日本の大手企業のなかには今では業績悪化より、他国企業の傘下になっている企業がいる。それは得意の白物家電の性能を高めれば大丈夫という依存から招いた結果と言える。また日本の教育においても旧来の教育システムを大きく変えずに依存しているからこそ未だに英語は読めても喋れない日本人を多く生んでいる。このままでは英語が世界共通語の一つとして使われているグローバル社会において、日本が大きく活躍出来ない未来を招いてしまう。
「惑溺」に対して違和感を持ち、「異端妄説」を唱える風潮を認める社会にならなければ、社会としての進化はないため福澤諭吉は「惑溺」を批判したと考える。
《問題の解き方》
まずは課題文より「惑溺」ついて整理してみると
・福沢は、文明を特徴づける「自由の気風」の対極にある精神的態度を「惑溺」と呼んで厳しく批判した。
・「惑溺」は、旧来の日本の遅れた迷信や価値観に拘束されている有様を指す言葉として用いられています。
・しかし、重要なのは、福沢の言う「惑溺」とは、本来は、単に旧来の日本の考え方に拘束されているというに留まらず、それ以上の意味を持っていたということです。
・「惑溺」とは従来の日本の慣習や迷信であれ、西洋の文物であれ、さらには「世論」であれ、もっぱら一定の見方や考え方にのみ依存して、それに拘束され、まさしく「精神の独立」を失っている状態を指すのです。
以上のようにざっくりとではありますが、「惑溺」について整理することが出来ます。
模範解答では、この整理した内容より
「惑溺」とは文明を特徴づける「自由の気風」の対極にある精神的態度のことであり、旧来の日本の考えだけでなく西洋の考えにおいても一定の見方や考え方にのみ依存、拘束されて「精神の独立」を失っている状態である。
ここを起点にし、「惑溺」に対して違和感を持たないままの社会には進化はないと論じてみました。
どう発想したら良いか悩みがちな場合は、発想の範囲を狭くすると良いですよ。
例えばこの場合「惑溺」に浸る社会を学校の部活動やクラス活動に当てはめてみたらどうでしょう?
一定の見方や考え方にのみ依存、拘束された場合は
・うちの部活は昔からこの練習法をしているからうさぎ跳びを1000回毎年春にする。
や
・校歌を一語一句間違えることなく覚えることが新入生の定めだ!
など昔から(伝統)ということで深い理由なくして拘束しているものはないでしょうか?
このような例を浮かべたら書きやすくなりませんか?
あまちゃん先生。
まとめ
あまちゃん先生。